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icon 2013.5.8

木村文洋×山戸結希×高橋和博クロストーク採録◆4/20「愛のゆくえ(仮)×あの娘が海辺で踊ってる(完全版)」上映を終えて

木村山戸監督の作品を評する言葉として「衝撃」というワードを目にすることが多いんですが。その「衝撃」が何なのか、なかなか言葉にするのが難しい。高橋さんも「衝撃」を受けて、今回の上映オファーをされたという経緯があるんですが、すこしお話して頂けますか。

 

高橋 僕は普段映写技師をしていて、PFF(2012年度のぴあフィルムフェスティバル)で『あの娘』の後に撮られた『Her Res~出会いをめぐる三分間の試問3本立て~』(以降『Her Res』表記)という作品を先に観ていたんです。その時は、もちろん山戸さんのことも『あの娘』がポレポレ東中野で上映されることも知らなかったんだけど、井土(映画監督・脚本家の井土紀州/スピリチュアルムービーズ〈自主映画制作・上映団体〉で高橋氏が共に活動)がもう絶対観なきゃダメだ、面白いって言っていたのはこの子かと思い出した。

 

山戸:井土紀州さんは、『あの娘』が上映された「東京学生映画祭」で審査員をされていて、誠実に言葉を尽くして、作品を評価してくださいました。

 

高橋それで『Her Res』を映写して、完全に監督・山戸結希を認識しました。そしてポレポレ東中野の上映(2012年11月10日~『あの娘』×『Her Res』×『さよならあの娘』(上演)を「処女の革命3本立て!」として上映した)に2回行っちゃったよ(笑)。

 

山戸:『Her Res』は2作目で12分くらいの短編なんですが、『あの娘』の時に、通行人のおじいさんがカメラを見ていたりとか、予期せぬ外部性が舞い込むことがたくさんあったので、その反動から、たとえば場所は室内で、カットも構築的に撮ろうと思って作りました。

 

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高橋衝撃」ということでいうと、『あの娘』はド頭のズームの途中で始まるっていうのにまず腰が砕けた。そして、映像と言葉と音楽が一体となっているところ。ずっと音楽が流れている、そのリズム感が「衝撃」だった。

 

木村:『あの娘』の構成って、最初から頭の中にキッチリあるんですか、実際どれくらい脚本通りに撮影するんでしょうか。

 

山戸:構成としては、菅原は母性で舞子は潔癖、2人を対比的に、とか脚本段階から概念的に考えてはいました。台詞で言うと、主演の子には委託しているものが大きいので、一文字でも間違えたら「すみません…!」って言い直してもらっていましたが、複数人出ているシーンはかなり自由にしゃべってもらっています。

 

木村:ということは、この映画だと舞子と菅原は忠実に脚本通りなんですね。

 

山戸:そうですね。ただ撮影時は、地方に行った分、撮影時間や体制の限界がすぐに露呈してしまい、おちおち考えている余裕がなくて。カメラを持ちながら動物的にならざるを得ない状況でした。終始駆けずり回っていたので、脳が思考停止状態で撮ってしまっていました。最近、ソウル国際女性映画祭とドイツのニッポンコネクションでの上映のために字幕用の日本語を書き起こしているんですが、主役の周りのみんながほっとかれてた分自由に話し過ぎてて、めちゃくちゃ大変です(笑)。

 

高橋 思考停止で撮ったって…、どう、木村監督。

 

木村:……、(無言で微笑む。その様子に場内爆笑!)

 

山戸:その笑みはなんなんですか~。あと、音楽がずっと流れっぱなしという点も、最近よく触れて頂くのですが、最初2作品とも観た方に指摘されて、その時に初めて気が付きました。

 

高橋 こういう音の使い方というか構成は、非常に難しいんじゃないかと思うんだけど。

 

山戸それは…日常的な感覚の話なので、大仰に言うつもりはなくて、同年代の女の子の方とか、常に体の中に音楽が流れているって感覚がありませんか?(前方のお客さんが大きく頷く)あ、めっちゃ頷いて下さって、ありがとうございます。いつも頭と体に歌が鳴っている感覚がしていて、映画も自然にそうなってしまいました。最新作の『おとぎ話みたい』は、せっかく「MOOSIC LAB」という音楽×映画の企画だったので、そういった外部的な指摘を経た後の作品として、今度は音楽をずっと流すことを意図的に構造化した映画にしています。

 

高橋:「MOOSIC LAB」は、山戸さんにピタッとハマった企画だと思いましたね。

 

山戸楽にロックバンドの「おとぎ話」さんを迎えられて嬉しかったです。『愛のゆくえ(仮)』も、エンディングテーマが最高潮に印象的ですよね。

 

高橋:これはもう決め打ちです(笑)。

 

木村いかがでしょうか。もう少しご意見をお訊きしたいと思います。

 

観客③:山戸監督の作品には、女の子の「消費される性」というものがテーマとしてあると思ったんですが、元々そういう点に問題意識があったんでしょうか。

 

山戸いやぁ…マジキチですよね、カフェとかで処女性について話してる女がいたら…!(場内爆笑) これはフェミニズム的な言説においてはよく指摘されることなんですが、「言語は男性によって作られたもの」だという認識はあって、言語で突き詰めていくと、どこまで突き合わせても、「あ、でも、そういうことじゃない…」みたいな感覚が残ってしまうことが当時ありましたね。それは生活感覚における男の人への心情とは全く別の、言語の問題として立ち上がるものでした。なので、言語のみに落とし込む出力ではなくて、映画という入れ物だからこそ表現出来ることを、とは考えていたと思います。

 

高橋:劇場で公開した時の客層はどんな感じでした?

 

山戸:完成した時、まずこの映画は同年代の女の子にしか伝わらないだろうなぁ…と思っていたのですが、公開した際には、同世代から、かなり年齢の離れた男性の方々にまでご覧いただけて、そして色んなお言葉を頂けて、本当に驚きました。結果、お客さんは男女年齢入り乱れ、なんだかカオスな客層となりました…。