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最後のレコード屋 第3回 マイク・サイトー(その1)――音楽ライター・松永良平のレコードショップ・クロニクル

第3回 マイク・サイトー(その1)

 

 

※「第1回」「第2回」は、雑誌『音盤時代』に掲載しています。詳しくは「ちょっと長めのまえがき 『最後のレコード屋』を再開するにあたって」をご参照ください。

※「第3回 マイク・サイトー(その2)」はこちら

 

 

 2015年、マイクさんは70歳になった。

 

 白髪をオールバックになでつけた赤ら顔は、どこか沖縄の守護像であるシーサーを思わせる。小柄だが引き締まった体は、年老いて体重や体型が手に負えなくなっているたいていのアメリカの老人とはあきらかに違う。長年、レコードを持ち運びしているからだろうか。

 

 レコードをぱんぱんに詰めた箱の重さは、持ったことのある人にしかわからない部分がある。“野球肩”とか“テニス肘”みたいな、おなじスポーツを長年続けた人がわずらう肉体の変形について聞くことがあるが、そういう意味ではマイクさんの全身は、レコードを持ち運ぶことに純化された“レコード体”であるようにも思える。

 

 マイクさんと出会ったのは、何年か前のレコード・ショーだった。レコード・ショーは、アメリカやヨーロッパのレコード売買の文化を知るうえでとても重要な文化だ。各地で月1回~年1回など都市によって頻度は違うが、そこでお金を払ってテーブルを買い、箱に詰め込んだレコードを売る。基本は現金商売。売るだけでなく、ほかのテーブルを回って買いもする。そういう人たちのことを“レコード・ディーラー”という。お店を持たず、仕入れたレコードを各地のショーで売ることだけで生計を立てている。それがマイクさんがずっと続けてきた仕事だ。

 

 マイクさんは、南カリフォルニアにいる中古レコードのディーラーとしては最古参のひとり。レコード産業が多く集まるロサンゼルス周辺で続いてきたレコードの売り買いをめぐる日々や人々を静かに見届けてきた。

 

 LA周辺で毎月行われているレコード・ショーで、やたらコンディションがよくて、しかもあまりアメリカでは見かけないカナダやヨーロッパのレコードを売っている東洋人ディーラー、それがマイクさんだった。マイクさんの持ってきたレコードをたくさん買ったということもあって、以来、すこしづつ親しくなっていった。

 

 マイクさんは、レコードを売るときにあまりしゃべらない。こっちが質問したら「YA!」「YA!」と短くはきはきした返事をして、必要最低限のことを答えてくれる。あとは腕組みをして、基本はほっといてくれる。「なにがほしいの?」「安くしとくよ」としつこいくらい聞いてくるディーラーに「うるさい! べつにおまえと仲良くなんかする気ないよ!」という気持ちになる場面もすくなくないショーの現場で、物静かで悠然としたマイクさんの態度には自然と一目を置きたくなる。

 

 驚いたのは、テキサスのオースティンや、ニューヨークのレコード・ショーでもマイクさんにばったり会ったことだ。

 

 「わざわざ来たんですか?」と聞くと「YA!」と、いつものようにはきはきとした返事が返ってきた。オースティンでもニューヨークでもたくさんレコードを売り、ひまを見てはほかのテーブルを回って買うほうにも精を出していた。ディーラー仲間と長距離を交代で運転したり、飛行機にオーバーチャージ(超過荷物代)を払ったり、なによりレコードの詰まった重たい箱をいくつもいくつも積んでは下ろしするハードな作業を続けながら、それでもマイクさんはレコードを売りにいくことをやめない。

 

最後のレコード屋第3回(その1)_サイトーさん写真マイク・サイトーさん

 

 マイクさんの苗字はサイトーという。日系三世。祖父母は日本からカリフォルニアに移民してきた第一世代。20世紀の初め、日本の年号なら明治時代の話だ。

 

 祖父母も両親も日本人だが、マイクさんは日本に行ったことがないし、日本語もしゃべれない。だが、遠い思い出のなかで祖父母が日本語を話していたことはなんとなく覚えているという。

 

 「じゃあマイクさんは、生まれも育ちもカリフォルニアなんですね」と聞いたら、意外にも「生まれたのはミルウォーキーなんだ」という答えが返ってきた。なぜ中西部のミルウォーキーだったのか。そのわけは、1945年という時代にあった。

 

 マイクさんの父が青年だった1941年、12月7日(現地時間)に日本軍がハワイの真珠湾を攻撃した。その約2ヶ月後の1942年2月19日、時のルーズベルト大統領は〈大統領令9066号〉を発令した。それは、アメリカの西海岸に住む日本人をひとしく敵性外国人とみなし、強制収容所に連行することを可能とする政令だった。とりわけカリフォルニア州では政令は厳しく運用され、すでにアメリカに帰化して市民権を持っている日系人にもその範囲は及んだ。つまり、マイクさんの祖父母や父も、収容所での過酷な日々を送ることになったのだ。

 

 だが、その運用はアメリカ中西部や東部ではそれほどの強制力がなく、その結果、多くの日系人は自由を求めてカリフォルニアを離れた。マイクさんの父がウィスコンシン州のミルウォーキーに向かったのも、そのためだった。ミルウォーキーのタイヤ工場に職を得た彼は、そのおなじ職場で日本人女性と出会い、ほどなく結婚した。そして太平洋戦争は終戦を迎え、マイクさんが産声をあげた。

 

 ミルウォーキーの記憶はマイクさんにはないという。3歳になるころには、一家はアメリカでの故郷であるカリフォルニアに戻ってきた。戦争が終わったタイミングで日本人として生まれたことでイヤな目に遭ったりしなかったかと聞くと、「両親の気持ちはわからないが、自分にはそんな記憶はない」と振り返ってくれた。「近所はメキシコ人が多く住む地域だったし、メキシコ人の子供たちとよく遊んでいたよ。両親は音楽が特に好きなタイプじゃなかったけど、メキシコ人たちと一緒にラジオをよく聴いていた。彼らがかけていたラジオからリトル・リチャード、ファッツ・ドミノを知ったし、リズム&ブルースやロックンロールを学んだんだ」

 

 はじめて買ったレコードを覚えているかと聞いてみた。

 

 「うーん。なんだったのか覚えてないけど、9歳か10歳だったと思う。新品で89セントくらいのシングル盤だった。当時の89セントは、今でいうと5、6ドルくらいの感覚だったよ」

 

 以来、かれこれ60年以上、マイクさんはレコードにかかわり続けているわけだ。そのレコードがだれの曲だったかよりも値段のほうを覚えているというのが、商売人の血だなと思えて、ちょっと笑ってしまった。

 

 今はマイクさんはディーリングだけで暮らしているが、ある程度の年齢に達するまでは数限りない種類の仕事を並行してやってきた。ロサンゼルスにはリトル・トーキョーもあるし、1950年代後半にはトヨタ自動車がカリフォルニアに進出を開始するなど、日本人、日系人向けの雇用もあったはずだが、マイクさんはそこには頼らず、自分で自分の糧を得るために動き回った。

 

 「最初の仕事はティーンエイジャーのときで、近所のドラッグストアの店員だった。高校生になるといくつも仕事を掛け持ちしていたし、カレッジのカフェテリアでも働いた。給料が出たら、UCLAが学生向けに開けていたショップでレコードを買っていたよ。当時UCLAのショップはウェストウッドだけでも2、3軒はあった。売っていたレコードはみな新品だけどね。新品を売るレコード屋ならハリウッドにも何軒もあったけど、60年代の半ばくらいからそのレコードのなかに“中古”が混ざりはじめた。中古といっても、みんなが買っていたのは新品なんだけどね」

 

 中古なのに新品?

 

 「当時はステレオのオーディオがようやく普及してきていて、レコードもそれまでのモノラル盤ではなくステレオ盤が登場していた。ステレオ盤のほうが人気が高くなると、モノラル盤は売れ残って、ダブつくようになってきた。だから、お店はモノラル盤を“中古品”扱いで安売りしていたんだ。どれも1ドルとか2ドルでね」

 

 そういえばクライヴ・デイヴィスの自伝『アメリカ、レコード界の内幕──元CBS社長クライブ・ デイビスの告発』(スイングジャーナル社)で、それに関する記述を読んだ記憶がある。若くしてアメリカのコロムビア・レコードの顧問弁護士から社長に抜擢されたクライヴ・デイヴィスは、それまでの同社の穏やかなイージー・リスニング系のイメージを一変させて、60年代後半から70年代前半のロック・ブームを象徴する刺激的な会社へと立て直した、アメリカのレコード産業における最重要人物。コロムビアを辞めてからも業界を渡り歩き、ホイットニー・ヒューストンらを世に送り出したり、近年だとロッド・スチュワートの“ザ・グレイト・アメリカン・ソングブック”のシリーズを大ヒットさせたりしている。

 

 社長に就任した60年代半ば、クライヴ氏はひとつの作品に対し、生産ラインでなかば自動的にモノラル盤とステレオ盤の2種類がプレスされていたことに疑問を持っていた。これからステレオの時代になり、もはやモノラルは潰えていく時流はだれの目にも明らかだったが、当時のコロムビアの方針は「ステレオ装置はハイエンドな購買層しか持っていないので、ステレオ盤はモノラル盤より市場販売価格(推奨)を1ドル高く設定した原価で出荷する」というものだった。その慣例はほかのレコード会社でもおなじようなものだったが、実際の市場では、すでにモノラル盤の見切りははじまっていた。マイクさんがそうだったように、バイヤーたちは1ドルに値下げされたモノラル盤をこぞって買っていたわけだ。

 

 その流れに対してクライヴ氏は、モノラル盤を1ドル値上げしてステレオ盤と等価(おおむね4ドル79セント)にするだけで、おそらく魅力に欠けるモノラル盤は店舗からも割高に感じられて、あっという間に市場から消え去るだろうと考えた。1967年から実行されたその大胆な作戦は的中した。結果的に遅くとも1969年までのわずか2年間で、アメリカのメジャーなレコード会社はモノラル盤のプレスをやめてしまう(一部のシングル盤とAMラジオ局向けにごく少数プレスされたプロモーション用のモノラル盤は除いて)。

 

 そんな時代の変わり目に、マイクさんの世代は業界からは見放されつつあったモノラル盤のLPレコードからロックを学んだ。授業料は1ドル。今ではその数百倍を払ってもなかなか買えないレアなものもある。そんな時代にマイクさんが居合わせたのも、ひとつの運命だろう。

 

 「あのとき、なにを1ドルで買えたかって? たとえばローリング・ストーンズのアメリカでのファースト・アルバム。なかにはポスターが入っている。それから、マザーズ・オブ・インヴェンションの『フリーク・アウト』。みんなシールド(未開封品)で、そこら中にモノラル盤でいっぱいになった箱が並んでいた」

 

 そのとき買ったレコードが、マイクさんが商売をはじめる元手になったのだろうか?

 

 「たしかにあの時代にレコードをいっぱい買ったけど、まだそれは自分のためだった」

 

 マイクさんがレコードを売り始めたのは、60年代の終わりだという。ということは、もう45年を超えている。

 

 3年ほど前、自宅でレコードを買わせてもらっているときに、マイクさんがぽつりと言った。

 

 「おれもあと3年で70歳なんだ」マイクさんの年齢を知ったのは、そのときの会話がはじめてだった。いい歳なんだろうなとは思っていたが、きびきびと動く姿からは実年齢は想像できなかったので驚いた。

 

 でも、もっと驚いたのは、続けてマイクさんが口にした言葉だった。

 

 「70歳になったら引退するつもりだ」

 

 

 このインタビューは、マイクさんが70歳を迎えた2015年の秋におこなった。マイクさんは、引退についてはたしてなんていうだろう? それがぼくが最後に聞きたい質問でもあった。

 

 でも、もうすこしマイクさんのレコード人生を知りたい。ぼくの知らない時代のLAの音楽やレコードの話も。

 

 

 (その2につづく)

 

 

 

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