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最後のレコード屋 ちょっと長めのまえがき 『最後のレコード屋』を再開するにあたって――音楽ライター・松永良平のレコードショップ・クロニクル

ちょっと長めのまえがき

『最後のレコード屋』を再開するにあたって

 

 

 「最後のレコード屋を探している。最後のレコード屋はどこにあるんだろう。最後のレコード屋はどこにいるんだろう。この連載では、かつてぼくを音楽に狂わせ、あるいは、だれかの人生をレコードで狂わせていったいまは亡きレコード屋と、その店を背負っていた人たちのことを書いていきたいと思っている。彼らがどう夢を見て、どう生きたかを記すことが、この世で最後のレコード屋へと続く、未来への道しるべのようなものになればいいと勝手に願って。」

 ────『最後のレコード屋』序文(『音盤時代』より)

 

 

 この『最後のレコード屋』という連載は、2011年に雑誌『音盤時代』の1号からはじまった。当時は、今のような“アナログ・レコード・リヴァイヴァル”うんぬんが世間で取り沙汰されるよりすこし前。もしかしたら遠くない未来には、こういう商売はもうなくなってしまうか、それとも好き者向けのネット販売に移行したり、商売として見えなくなるか、規模がちいさくなっていくのかもしれないという漠然とした不安もあった。そんな時期に、おずおずとはじめた連載だった。

 

 第1回では、アメリカのミル・ヴァレーというちいさな山あいの町にあった名店〈ヴィレッジ・ミュージック〉、2012年の第2回では、福岡市の〈山兵(やまひょう)〉についての文章を書いた。前者は閉店するというニュースを聞いて駆けつけたときに店主に行ったインタビューをもとにして書き、後者はその店を愛した人たちの証言を拾うかたちでお店の魅力の本質を想像しながら書き上げた。どちらも掲載時にはすでに営業を終了していた。つまり、『最後のレコード屋』というタイトルは、“レコード屋の最後”のアナグラムでもあり、そういう今は亡き名店の終わりかたを見届けるとともに、その渦中や周辺にいた人々の群像を扱う連載のつもりだった。

 

 タイトルの意味については、もうひとつ、自分なりに考えていたことがある。“レコード屋”という言葉には、単に“レコードを売る店”というだけでなく、“レコードを愛し、レコードを売ることに人生を賭け、レコードを売ることでこそ才能を発揮することのできる人間”という意味もあるのではないか。すなわち、映画人をかつて“活動屋”と呼んだ時代があったように、度を越した趣味人であることのどうしようもなさと輝かしさの両方を表せるんじゃないかと。書きながら思い出したが、こっちの『最後のレコード屋』には、2010年ごろにロサンゼルスで元ライノ・レコードのリマスタリング・エンジニアであったビル・イングロットと話していたときに、彼がイギリスで孤軍奮闘する再発レーベル、エイスを指して「彼らはこの業界の“Last man standing(最後の生き残り)”だよ」と言ったことにも結構影響されている。

 

 その後、『音盤時代』第3号の準備がはじまるのを待ちながら、「次はここにしようか」といくつか候補を考えてはいた。だが、編集・発行サイドの事情もあり、その後、あたらしい号は出ていない。また、取材のお願いをするなかで、かつてレコード店主だった方から「閉店するときに多くの方に迷惑をかけているので、お願いだから騒ぎ立てるのはやめてほしい」という趣旨のお手紙をいただいたこともあった。その反応はショックだったが、言いにくい本心をはっきりと告げられたという意味では、この連載が持つ両面性を指す提言でもあった。「はたして自分は他人の墓をあばくようなことがしたかったのかな?」と苦い反省もした。そんな経緯もあって、しばらく『最後のレコード屋』は自分のなかで無期限延期の連載となっていたのだ。

 

 約4年ぶりに連載を再開するにあたっては、「あの連載の続きを読みたい」という強い要望をいくつかいただいたこともきっかけとしては大きかった。連載の続きはこの企画を最初に認めてくれた『音盤時代』でやると自分では決めていたので、『音盤時代』編集人の浜田淳さんにも連絡を取り、舞台を変えての再開を快諾していただいた。あらためて感謝してます。

 

 そして、再開するうえで、決めたことがもうひとつ。

 

 それは、連載の重点を『最後のレコード屋』のタイトルに込めたふたつの意味の後者に置くこと。すなわち、その店が今はもうないとか、その人に会えないってことを優先するんじゃなくて、“レコードを愛し、レコードを売ることに人生を賭け、レコードを売ることでこそ才能を発揮することのできる人間”をめぐる話を書いていこうってこと。レコードを愛することと、レコードで稼ぐこと(他人からお金をもらうこと)を、ビジネスとして割り切ったり、オークション的なゲームにしてしまうのではなく、きちんと自分の存在理由として持っている人、そういう人の人生や暮らしを、ぼくの文章で伝えたいと思った。

 

 ていうかさ、そんな言い方はまどろっこしいか!

 

 ぼくの出会った愛すべき店や人たち、行ったことや会ったことはないけどぼくの好きな人たちに息づくなにかかけがえのないものを作った、あるいは、もしかしたらこれから出会うだろう店や人たち。その店が有名だとか、だれも知らないとか、なんも関係ない。あのときその店にいたんだよって話をしたり聞いたりしたときに自分のなかでずんとうずくなにか。それがなにかを自分の言葉でうまく言えたなら、ぼくもいつか最後のレコード屋にたどり着けるのかもしれない。

 

 そんな記憶の遠足みたいな道のりをもう一度歩いてみたくなって、連載を再開します。またしばらくおつきあいください。

 

 

松永良平

 

 

※最後のレコード屋 第3回 マイク・サイトー(その1)はこちら。