icon 2015.7.24

glasshouse journal 第4回「マスクする人々」――小説家・荻世いをらの綴る日常と景色

glasshouse journal 第4回

「マスクする人々」

荻世いをら

 

 ざわちんメイクのざわちんがマスクをつけているような感じで、インフルエンザ対策でも花粉症対策でもなんでもないのに、街中で白いマスクをつけている人をもはや当たり前のように見かけるようになって久しいが、この傾向を喜ばしい事態として自分が受け止めていることについてなんとなく考えている。

 ツイキャスやニコ動なんかでの、ネット上での顔出しを「ゆるく」避ける人たちが、マスクを着用するというイメージに世の人々が見慣れ過ぎた結果、そのままそのスタイルが現実の往来に漏出したということなのだろうか。少なくともインターネットがなければ、今のような状況にはならなかったように思う。

 もちろん同じ潮流にあるとはいえ、あのマスクの用途はさまざまなようだ。

 すっぴんを隠すため(これは昔からあったと思う)だったり、逆に目を強調するためだったり、あるいはマスクをしていること自体が可愛いとかそういうのもある。老若男女マスクをつけるわけだから、マスクを作っている会社はけっこう儲かってるんじゃないか?

 いずれにせよ、自分の顔が自分以外の人間の視線に無条件にさらされるという、どんな顔もが有する本来的なその不条理さに、うすうす気づいてはいたもののようやく世間が自覚したということなのかもしれない。

 顔の半分ぐらいを隠しておいた方がなんとなく落ち着くのは、まあ自分の場合ある。というより、なぜ、人は悪びれることもなく顔を曝しているのだろうか?

 なぜ、携帯番号や住所や、あるいは実名を無闇やたらには明かさないのに、外で本を読むときだってカバーで書名を隠すのに、顔はいいのか。携帯番号や住所や、やり方によっては実名だって、必要に応じて変更することは出来るものの、顔だとそうはいかないというのに。無理にやったとしても、それなりの代償が伴うというのに。

 とはいえみんながみんなフルフェイスのヘルメットみたいなのを被って、まったく顔が見えなくなってしまうのも、なかなかに物騒であることは確かだ。となると、往来においては見ず知らずの人間同士でも、とりあえず顔を見せ合っておくというコミュニケーション、というか信用取り引きが行われているということなのか。

 特別な表情をつくらない限り、インターフェイスとしての顔面は往来の視線に曝されることによって、その人が「イカれた」人物ではないことの担保として機能する。その機能と、個別に必要とされている(っぽい)匿名性の妥協点として、あのマスクがあるのかなとも感じる。

 前にベトナムへ行ったときは、色とりどりの布製のマスクが沢山売ってあって、実際バイクに乗っている若者なんかはみんなつけていて、排気ガスの肺への侵入を防ぐのと、お洒落を兼ねているようだった。確か中国でもそんな感じだったような。しかしこれから日本でもそういう風に、マスクの色や形状でなんらかの個性を主張する方向へいくのかどうかというのは、まあどうでもいい。とりあえず自分は、現在巷で人々がつけているあの白い医療用マスクの醸す、見た目だけでなく当の顔を隠す方法自体もまた「とりあえずの仮のもの」であるという感じにこそ、なんとなくの好意を抱いているのだと思う。

 

※glasshouse journal 第3回「明日も見てくれるかな?」はこちら。 

 

 

 

●Profile

荻世アー写荻世いをら

1983年生まれ。小説家。

Photo:Maya Murase