icon 2013.4.6

石崎孝多◆そこそこ音楽室(第1回)

何事もほどほどに。ではなく、そこそこに。この「そこそこ音楽室」というタイトルは「基本音楽のことなんですが、音楽だけでなく、いろいろなことに触れていきます」という意味からきたタイトルです。

そこそこ音楽についての話題なのですが、本やアート、ファッション、雑学などにも触れていければと思っています。まあ、いろいろ書いていきたいと思っていますので、どうぞお付き合いください。

 

 記念すべき第一回目は「矢数俳諧(やかずはいかい)」です。

 この「矢数俳諧」、最近知ったのですが、知れば知るほど非常に興味深いものです。

 

 「矢数俳諧」とは

俳諧形式。京都の蓮華王院三十三間堂で行われた矢数(通し矢)の武技に模し,一昼夜24時間以内にできるだけ数多くの句数を詠み競うこと,またその俳諧をいう。通し矢は1662年(寛文2)に尾張藩士星野勘左衛門が6600本,68年に紀州藩士葛西団右衛門が7000余本を記録したが,翌年再び星野が挑んで総矢1万542本中通し矢8000余本の新記録を樹立,総一(天下一)を称した。この競技に刺激された西鶴は,77年(延宝5)5月25日大坂生玉本覚寺で1600韻の独吟に成功,《西鶴俳諧大句数》と題して刊行した。(kotobankより参照)

 とあります。

 

簡単に言うと、「昼夜問わず、一日中すさまじい数の五七五を詠みまくる」という詩の即興ことです。

井原西鶴は1600句を詠み、多くの観客を沸かせたそうです。これがヒップホップのフリースタイルに似ているのでは、という論点があり、確かに似ている気がするなぁ、と。

矢数俳諧が行われていたのは17世紀。ヒップホップの歴史は詩の朗読をするミュージシャン、ジャマイカのレゲエ、アフリカのグリオなどが起源のようで1960年代から始まったと言われています。

 

日本にはヒップホップのようなスタイルがずっと以前から存在していたということです。すごいですね、日本。

しかし、「矢数俳諧」とは実際どのようなものだったのでしょうか。

すさまじい数の「五七五を詠みまくる」。。。内容や演出、環境、どれも気になります。

「ヒップホップのフリースタイルバトルそのままだった」というのも良いと思いますが、全く違う形であった方がおもしろそうです。

相手を罵る?そもそも「矢数俳諧」は誰に向けられたものなのか。

「矢数俳諧」の創始者、井原西鶴はかなりの女好きであったようで、矢数俳諧を30代で始める前までは、多くの女性に金を費やしては遊ぶ日々。

矢数俳諧で自分が有名になり出版した浮世草子作品『好色一代男』はベストセラー。

そのお金でまた遊ぶという。。。

大の女好きの西鶴ですが、だからと言って矢数俳諧が女性に向けて詠まれたものかというとそうではなく、もっと詩や短歌、文学の流れに趣きを置いたものでした。

文化人なところはしっかり文化人らしく、それが西鶴。

矢数俳諧が行われていた場所は京都・蓮華王院本堂三十三間堂や大坂・本覚寺などのようです。素晴らしいですね、圧倒されそう。

もっと違う場所で、例えば祭りの神輿の上で行うとか、お城の屋根の上で、あるいは茶屋で行われていたりしたら、それはそれで相性が良いと個人的には思っています。

音楽と場所の関係性は、僕は実はすごく重要な気がしていて、インディーバンドがガレージで練習したり、パブで演奏するのはそれだけである種の一貫したスタイルを打ち出せるし、物語を提示出来るような気がしています。

 

矢のように言葉が飛び交い、降り注ぐ「矢数俳諧」を蓮華王院本堂三十三間堂で行う。

これだけでちょっと矢数俳諧がどんなものかわかりますよね。盛り上がっただろうなぁ、当時の様子を見てみたいものです。

ちなみに井原西鶴はその後、1600句を詠みあげた36歳よりどんどん腕を磨き、43歳の頃にはなんと25000句を一晩で詠んだようです。

まるで高速ラッパーのツイスタ。。。

25000句を詠むのに、逆にリズムがないと難しいような気がします。

そうなるとやはり矢数俳諧はフリースタイルのヒップホップのようなものだったのかな。

矢数俳諧、何百年も前から日本に存在したそのスタイルを今確実に継いでるのはツイスタということで。

 

「そこそこ」な感じで今回はこれにて。ではでは、また次回!

 

 

 

●Profile

石崎孝多

1983年生まれ。フリーペーパー専門店「Only Free Paper」元代表。amazonにない本を紹介するnomazonなどに関わりながら、企画、執筆、選書、店舗のディレクションなど多岐に渡る活動を行っている。