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icon 2015.9.30

限りなく愛に近いブルー――Arcaの「Soichiro」に見るDerek Jarmanの『Blue』

もうすぐ9月が終わろうとする頃、Arcaの2015年秋リリース予定の新作『Mutant』から、新曲「Soichiro」のMVが公開された。SoichiroとはArcaと10年来の絆を育み、彼のビジュアル面を語るうえで欠かせないアーティスト、Jesse Kandaのミドル・ネームだそうだ。ArcaことAlejandro Ghersiはベネズエラ出身、ニューヨークを経て現在はロンドンを拠点に活動するプロデューサーだ。1990年生まれ。若い。2012年にUNO NYCからEP『Baron Libre』『Stretch 1』『Stretch 2』を、2013年に自主ミックス・テープ『&&&&&』を、2014年にMuteからファースト・アルバム『Xen』をドロップ。その間にKanye WestやFKA twigs、björkの諸作に参加するなどハチャメチャに注目を浴びている才人である。個人的には不穏、不規則、不安定、不気味とまさに「不」づくしの聴後感(ネガティブな意味はない)。なによりわりかしメロディックなところに、そして当の本人はインダストリアル、ヒップホップ、アンビエントなどなどあらゆる音楽ジャンルもインターネットの大海原もダークにミステリアスにバウンスしながら泳いでいるようなところに、好感を寄せている。とはいえ、今日書きたいのは出だし数行目までのようなニュースサイト的な、プレスリリース的なことではない。

 

Arcaの2015年秋リリース予定の新作『Mutant』から「Soichiro」のMV

 

シネフィルには短絡的だと怒られてしまいそうだが、このMVを見たとき、すぐさまDerek Jarmanの1993年の遺作『Blue』が頭をよぎって胸が熱くなった。彼は独特な美意識に貫かれたイギリスの映像作家で、諸作は同性愛とディストピアなイメージに溢れている。Arcaと同じくゲイで、哀しいことに晩年はエイズの合併症で亡くなった。Pet Shop BoysやThe SmithのMVを手がけたということで知っている人も多いかもしれない。『Blue』は本編の75分間、本当に青一色の画面が延々と続き、エイズ末期でほとんど目も見えなくなっていた彼(と数人)の朗読――彼自身の病状と死の恐怖、どんどん衰弱していく友人やエイズで亡くなってしまった友人、同性愛者に対する世間の目、やがて忘れ去られる生、そして色彩に対する思索――が淡々と乗る。そこにSimon Fisher Turnerらによるめくるめく音像が重なる。ところでUCLの学者たちによると、線虫は死ぬときに青い光を放つのだそうだ。Derek Jarmanが最後に辿り着いた色彩、青。Arcaの「Soichiro」のMVでアグレッシヴなビートと浮遊する音世界がいったんやんで暗転し、大聖堂で奏でられる鎮魂歌とも讃美歌ともとれるような音色が響くとき、どうしても『Blue』の神聖な美と重ね合わせてしまうのだった(もちろんArcaは健康体だろうけれども)。

 

Derek Jarmanの1993年の遺作『Blue』

 

ここで、その『Blue』のインスピレーションになったと言われるYves Kleinについても触れておかなければなるまい。彼はピンクやオレンジなど単色で描く「モノクローム絵画」に終生こだわったフランスのアーティスト。なかでも抽象的で非物質的、無限の宇宙を思わせる「青」に魅せられ、「究極の青」を求めて自ら「インターナショナル・クライン・ブルー(IKB)」という染料まで作ってしまった人間である。それをヌードの女性に塗ってキャンバスに写し取る「人体測定」シリーズなどで知られている。そういえば2006年から2007年にパリのポンピドゥー・センターで行われた大規模な回顧展のタイトルは「身体、色彩、非物質」だった。もちろんArcaがDerek JarmanやYves Kleinの影響を受けているのかは定かではないが、青一色の「Soichiro」のMVを見るに、どこか通底するものを感じ取ってしまう。加えてArcaがTwitterで『Mutant』のリリースを発表した際、燃え盛るような真っ赤な花の写真を添えていたことも思い出してみてほしい。赤は情熱、血、生を想起させる色だ。赤と青、生と死、一瞬と永遠。新作は前作『Xen』以上にエモーショナルでパーソナルな作品になっているのかもしれない(ポスト・インターネットやディストロイド、出自やセクシュアリティだけで捉えるのは好まない)。

 

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ArcaのTwitterより新作告知の際に添えられていた花の写真

 

そもそも、「Soichiro」のMVはJesse Kandaの手によるものなのだろうか?他のMVには必ず「Video by Jesse Kanda」とあるが、「Soichiro」にはそのクレジットがない。身体を極度に歪ませ、引き延ばし、膨張させ、しぼませながら異形を生み出してきたいままでの彼のアートワークとはちょっと趣が違うような気がする。あるいはJesse Kandaは撮影だけして、文字通りArcaと見る/見られる関係性をより強固なものにしているのか、はたまたArcaがカメラを固定して自らを撮っているのか。いずれにせよMVで「原形をとどめた」彼が映し出されているのは新鮮だったし、どこかしらアヴァンギャルド・ホームムービーの香りも漂っている。そしてミーハーで下世話な人間としては、Arcaがニューヨークからロンドンに居を構えることになった直接の理由であるボーイフレンドのDaniel Sannwaldとの関係はどうなっているのか、Jesse Kandaとのラブ・トライアングルの可能性は、新作でのArcaとJesse Kandaのタッグの距離感はいかに、などなどゴシップな想像を掻き立てられてしまう。新曲を聴くに劇的な音楽性の変化はなさそうだが、こうした深読みや妄想をしながら新作を待つのも、秋の夜長のひとつの楽しみだなあと思う。(福アニー)

 

※覚書:ウェブメディアの定説として、「800字を超えるととたんに読まれにくくなる」のだそうだ。見出しも短ければ短いほど読んでもらえる率が高くなるのもわかるけれど、固有名など省略されすぎてもはやなにがなんやらである(PUNPEEさんがPとか)。ところでHEATHAZEは人そのものに興味があるので、インタビューを掲載することが圧倒的に多い。でも、今回Arcaの「Soichiro」のMVを見て「Derek Jarmanの『Blue』みたいだ」という感情が沸き起こったとき、れっきとしたクリティークになっていなくとも、自分の言葉でなにか書かなければと思った。ありとあらゆる日本の媒体の伝え方をチェックしたが、数行のリリース情報だけでとても哀しくなってしまったから。いやむしろ手間ひまかけて作っているこのサイトが、そんなサイトの足元にも及ばないくらい読まれていないのかと思うと悔しくて少し泣いた。金太郎飴みたいにどこも同じ「文字」になんの価値があるというのか?そうやって「なんでもいいから書け」と背中を押してくれたのが、音楽ブログ「DIRTY DIRT」の9月24日の文章だ。深夜のナイーヴな時間帯に読んだこともあって泣けてしょうがなかった。そして同じく音楽ブログ「No USB」の9月23日の文章にもグッときた。自分は感謝の気持ちを伝えるときはちゃんと手紙と花を渡すし、家族や親戚など大切な人とはいまだに手紙でやり取りしているのだが、そこで生じる贅沢なタイムラグと同じで、「遅らせること」「とどめること」はこの時代において非常に重要だと思う。長けりゃいいってもんではないが、「●●が▲▲に■■をリリース!」だけでは伝わらない熱量や志を伝えようとすること、新たな視点を提示しようと努めること。対面取材記事だけでなく、感銘を受けた人・もの・ことがあったなら(それが並び的に美しくなくとも)、なるたけその都度記していこうと気持ちを新たにした9月の終わりであった。

 

 

 

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