abc_logo
icon 2016.5.21

A,B,CIVILMAGAZINE 第6回 橋本麦――クリエイティブ集団・CIVILTOKYOが注目アーティストにインタビュー

「A,B,CIVILAMAGZINE」は、私たちCIVILTOKYOのアートワーク連載と注目のアーティストへのインタビュー連載のふたつの連載企画です。今回は注目のアーティストへのインタビュー連載。ご登場いただきますのは、第19回文化庁メディア芸術祭にてエンターテインメント部門新人賞を受賞された映像作家・デジタルアーティストの橋本麦さんです。

 

いつでもどこでも誰でも誰とでも、パソコン一つでなにかができることが当たり前でなかった私たちは、麦さんの物心ついた時からインターネットを使いこなせる経験を羨ましくも感じつつ、不便だった自分の時代を懐かしむ気持ちがありました。

 

私たちの時代はなにかを探す場合、雑誌を買い、テレビを録画し、マスメディアを貪ってあたりはずれに出会いながら、自分の趣味趣向をゆっくりと形成してきました。多くの人が少ないメディアを共有しあっていたので、次の日学校で昨日やっていたテレビの話をするというようなことも多かったと思います。そしてゆっくりと形成されていったパーソナリティーは、何を好み、何の道に進むのか、自分のしっくりくるものになかなか出会えないことも多く、数ある選択肢を知らないまま周りの声に惑わされていたこともあったのではないでしょうか。

 

幼少期よりプログラミングとインターネットに戯れながら育った麦さんは、それはちょうど私たちが放課後に友達と校庭でサッカーをするのと同じぐらい気軽にパソコンと触れ合いながら、当たり前に検索を繰り返してきたようです。Flash動画や今のSNSのようなBlogやYouTuberの流れにつながるような動画を見たり、好きな音楽などを関連や検索でどんどん掘り下げていったりするようなことを遊びとしてやっていたというのは、現在の麦さんを形成する上でとても重要な役割をになっているのではないか、ともするとこの経験まんまなのでは、とお話を伺っていて感じました。

 

Windows95が発売されてから約20年。この20年で何百年・何千年分の知識を溜め込んだインターネットのどんなことでも検索ワードで調べられる時代の恩恵を受けて育ち、またその膨れ上がった参考例と向き合いながら作品をつくる窮屈さの狭間で、新しい表現に対する貪欲さと自らナードだと称するユニークな人柄は、これからもトレンドなどにとらわれない新しい作品をつくっていかれるのではないかと感じました。きっとその時代感のなさにすらこだわりもないのだと思います。

 

デジタルというとどこか自動でなんでも簡単に作ってくれると勘違いしてしまいがちですが、技術と独特な視点に裏付けられたおよそオートマチックとは言い難い長く地道な作業の連続によって出来上がった作品群を目の前にして、私たちは驚きの連続でした。今回受賞された作品で言えば、ロケハンという名のGoogle Street Viewをひたすら見続け、ストックしていく作業などおおよそ写経に近いものではないでしょうか。いつの時代も、どんなにテクノロジーが発達しようとも、最後はその人の力次第であるということも再確認させていただいたと思います。是非たくさんの参考動画とともにどうぞご覧ください。

 

group_inou – EYE

 

「環境に対する天邪鬼というかクソ食らえ感もあったと思います」

――本日は事務所にお招きいただきありがとうございます。文化庁メディア芸術祭でノガミカツキさんと制作されたgroup_inouのMVを拝見させていただき、とても惹かれました。その後3人で麦さんのサイトを見て、ぜひ一度お会いしてお話を聞きたいと思い、ご連絡させていただきました。ご快諾いただきありがとうございます。

 

橋本麦(以下、麦):こちらこそ、ありがとうございます。

 

――我々3人は1984~85年生まれなんですが、麦さんは92年生まれですよね。

 

:そうです。今年24歳ですね。

 

――僕たちとは世代が一つ違うという感じですよね。麦さんのサイトでプロフィールを拝見させていただいたんですが、大学ではどのようなことを学んでいらっしゃったんですか。

 

:映像系と言うよりは、メディアアート系の学部でした。ただ、大学2年くらいからほぼ学校には行っていなかったんですよ。武蔵野美大では1年では彫塑、油画、タイポグラフィなどの基礎的なところをまず一通りやるので、学部で専門的な部分はあまり学んでいないというのが正直なところです。

 

――では、映像の技術などは完全に独学ということですか。

 

:そうですね。でも、多分みんな独学なんじゃないかなと思います。CG系は特にそうですね。

 

――映像制作はいつ頃からやっていらっしゃるんですか。

 

:高校の部活からです。放送部だったんですよ。

 

――麦さんのサイトで当時の作品を拝見しました。全国高校放送コンテストで最優秀を受賞されたそうですね。

 

:スポーツ医学や交通管制のシミュレーションを駆使して、遅刻魔をどうやったら遅刻せずに登校させられるかというのを検証するフェイク・ドキュメンタリーのようなものをつくりました。Nコンは放送部の甲子園みたいな感じなんですけど、それで最優秀をいただいて、それで少し勘違いして、「美大行くか」と思ったんです(笑)僕の高校はいわゆる自称進学校で、僕は理系だったんですが、そういう環境に対する天邪鬼というかクソ食らえ感もあったと思います。

 

――クソ食らえ感は、大学に入ってからもありましたか。

 

:ありました。僕は映像学科だったんですが、実は僕が受験する年に映像学科の教授だった今敏さんが亡くなってしまったんですよ。今敏さん目当ての受験生も多かったと思うんですが、そのことで映像学科の教授陣で現役で活躍している方が少なくなってしまったんです。その頃は、現役で手を動かしている人しか尊敬しない、くらいの気持ちでしたので、反発心はあったと思います。

 

――麦さんも今敏さん目当てで映像学科を志望されたんですか。

 

:いえ、僕はパソコン得意キャラだったんで、そのイメージどおりに工学系の大学に行きたくなくなってしまったという、本当にそれだけです(笑)でも、少し意識が高い話をすると、高校時代は川村真司さんの作品が好きで、川村さんの大学時代の教授というつながりで佐藤雅彦さんを知ったんです。僕が受験する頃には東京藝術大学にいらっしゃったので、いかにして東京藝大の大学院の映像研究科の佐藤研に行くか、芸大は無理なのでとりあえず美大の誰でも入れるところに行ってから進学しよう、と、うっすら考えつつムサビを選んだ所もあったりします。結局中退しちゃったのでまったく意味ないんですが…

 

――中退されてしまったのはどうしてですか。

 

:留年したから中退したんです。大学にほぼ行っていなくて、留年するかなと思った段階で、親に「中退する」と早めに伝えて留年したことがバレないようにしたつもりだったんですが…でも、中退届けを出した後に成績表が実家に届いちゃって(笑)

 

――なるほど。麦さんの学科はどうだったんですか。

 

:僕の学科は映像学科と言いつつもメディアアートよりで、僕の当時好きだったMVやCMのような広告映像というよりは、ナム・ジュン・パイクのようなビデオ・アートから勉強しようみたいな感じはありましたね。一方でProcessingやMax/MSPも授業で軽く触りつつ。でも、それはそれでメディアの存在みたいなものがわかってよかったと思っています。僕が高校でドキュメンタリーをつくっていた頃は、16:9で、24fpsっていう映像のフォーマットやプロトコルがあって、その作法の中でいかにうまいものをつくるかを考えていました。でもメディアアートって、より自由度が高いですよね。16:9じゃなくてもいいし、フレームレートをめっちゃ上げてもいいし、そもそも平面じゃなくてもいいし。そういうメディアそのものの形態をメタ的に扱うっていう発想を、あまり真面目にやってた訳ではないですが、一通り知れたのはよかったな、と思ってます。とはいえ、原点は映像なので、デジタルなことを薄く広くやってると思われたりもしますが、あくまで自分は映像制作者です、ということにしてます。

 

――(伊藤)僕も写真学校で、木村伊兵衛や土門拳から流れや、そもそもパリのリュミエール兄弟がカラー写真を実用化して、みたいなことは写真学校で学びましたし、僕の行っていた学校では1年の時はモノクロのフィルムでしか撮らせてもらえなかったんですよね。

 

:僕も学校でやりました。カメラ・オブスキュラから始まり、みたいな。

 

――(伊藤)そうですそうです。ピンホールカメラを自分でつくって、みたいな。そういうのをすっ飛ばしてやってますっていう人も全然いいと思うんですが、モノクロの、黒の強弱だけで出てくる感覚を知ったことで、カラーになった時に少しの色の強弱でも判断できるような能力がついたと思っています。実は学校に内緒でカラーのデジタルで写真を撮ったりPhotoshopで加工してみたりもしていましたけど、そういう自分が興味あることに加えて、歴史の知識などの土台の部分を学ぶことは大切だと改めて思いました。

 

:そうですね。