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最後のレコード屋 第3回 マイク・サイトー(その2)――音楽ライター・松永良平のレコードショップ・クロニクル

第3回 マイク・サイトー(その2)

 

 

※「第3回 マイク・サイトー(その1)」はこちら

 

 

 南カリフォルニアに住むベテランの中古レコード・ディーラー、マイク・サイトーさん。2015年に70歳になった日系3世で、顔つきは東洋人そのものだが、英語以外はしゃべれない。

 

 買付の仕事を通じて出会ったマイクさんとは、「景気はどう?」「日本はどう?」などなど、ひとことふたことあいさつ代わりの言葉を交わすうちに、なんとなく気持ちが通じていった。寡黙で精悍なマイクさんが気を許してくれるようになったのは、もちろんぼくが仕入れたくなるレコードを彼がたくさん売っていた、つまり確かな商売相手だったからという面も大きい。でも、やっぱり根っこの部分では、自分のルーツである日本人を相手にしたやさしさというか、親心みたいな部分はあったようにも思う。

 

 「最初にLAのレコード・ショーに現れた日本人ディーラーは、ふたりのマサオだった。70年代の終わりか、80年代の始めだったかな。最初にマサオがひとりでやって来た。デトロイトにあった“カー・シティ・レコード(Car City Records)”の店主、ボブ・セドリックがマサオをおれに紹介してくれた。それで、次に来たのが、ちょっと変わったマサオだった(笑)」

 

 “ちょっと変わったマサオ”というマイクさんの表現に吹き出してしまった。マイクさんが言っている“ふたりのマサオ”を特定するのは簡単だ。最初のマサオは、平川雅夫さん。渋谷の輸入レコード店、マンハッタン・レコードの創始者であり、惜しくも2014年末に逝去されている。ふたりめのマサオは、ごぞんじ、下北沢の名店、フラッシュ・ディスク・ランチの椿正雄さん。

 

 このふたりがレコード・ショーにやって来るようになった80年前後、マイクさんはディーラーを始めてすでに10年ほどが経っていた。その10年は、LAの街で中古盤ディーラーたちが集う週末のレコード・ショーが行われるようになり、徐々にレコード・カルチャーのひとつとして定着していった歴史と符合する。

 

 時計の針を1960年代に戻す。マイクさんが音楽に魅了され、レコードの売り買いを生業とするに至った時代の話を聞いてみよう。

 

 「1966年ごろ、おれはサンセット・ストリップにあったナイトクラブの“イッツ・ボス(It’s Boss)“で働いていた。その店のハウス・バンドが、テキサスから出てきたばかりのボビー・フラー・フォーだったんだ。だからおれは彼らが来てから一ヶ月ほど毎晩、彼らの演奏を見た。それはすごいものだったよ。『アイ・フォート・ザ・ロウ』がヒットしたんで彼らはツアーに出ることになり、その先でボビーは亡くなってしまった。他にも、マーヴィン・ゲイ&タミー・テレル、ミッドナイターズ、ラヴィン・スプーンフルなんかを見た。当時のLAですごく人気があったバンドはザ・リーヴズで、彼らもイッツ・ボスでよくやっていたよ」

 

 そうだった、1960年代後半、まさにロック激動のメッカといえるその発火点、あの映画『サンセット・ストリップの暴動』のど真ん中でマイクさんは働いていたのだ。

 

 「おれが通ってたクラブは“アシュ・グローブ(Ash Grove)”といって、ブルースマンがよく出演していた。カレイドスコープやライジング・サンズもそこで見た。ライジング・サンズはタジ・マハールとライ・クーダーがやってたバンドだよ。UCLAではフリー・コンサートがしょっちゅうあって、ジミ・ヘンドリックスを見たのもそこが最初だった。あのころは無料じゃなくても、チャージは2ドル50セントか3ドルくらいだった。指定席なんか、もちろんないしね」

 

 一番印象に残っているバンドやアーティストは?

 

 「ボビー・フラー・フォーは本当にすごかった。LAに来るまでに、地元のテキサスですごく鍛えられていたんだろうね。逆に、本当にひどかったのは、バーズだ。何度か見たけど、へたくそでね(笑)。今は人気がないだろうけど、チェンバーズ・ブラザーズもすごいライヴを当時していたよ。“トルバドール(The Troubadour)”にマディ・ウォーターズ・バンドを見に行ったときのこともよく覚えてる。オーティス・スパンがピアノを弾いていた。平日の夜で客は白人ばかり。30人くらいしかいなかったな。でも、演奏は本当にしびれるものだった」

 

 そんな濃厚な音楽体験が、いよいよレコード・ディーリングへと移行するタイミングは、いつ頃訪れたのだろう。

 

 「1969年、おれは当時ハリウッドにあったレコード店、“ミュージック・マン・マレー(Music Man Murrey)”で数ヶ月働いた」

 

 いきなり伝説的な名前が出た。ミュージック・マン・マレーは、LAのレコード・ショップ史を語るうえでは絶対にはずせない存在。1922年生まれのユダヤ人マレー・ガーシェンツは根っからのレコード・コレクターで、1962年に自分の店をオープンした。2013年に91歳で彼が亡くなるまで、その存在はカリフォルニアの伝説であり続けた。今でも、中古レコードに貼られたままの過去のプライスタグに「Music Man Murrey」という名前を見かけることは少なくない。マイクさんが働いていた時期は、まだ開店から10年も経たないうちだから、さぞやマレー氏も血気盛んだったことだろう。

 

 いっぽう、ウェストLAでは素人たちがレコードを週末に持ち寄って売るレコード・ショーが70年代には本格的にはじまっていた。

 

 LAのレコード・ショーの源流としては、ヴァイン・ストリートに今も建つキャピトル・レコードの駐車場で行われていたレコード・ショーが有名だ。のちにライノ・レコードのスタッフになる面々も、こぞって出かけていたと聞く。

 

 「先にはじまったのは、ウェストLAのショーのほうだ。ソーテル通りとピコ通りの交差点にIHOP(※ファミリー・レストラン・チェーン。“International House Of Pancakes”の略)があるんだが、その裏にだだっ広い駐車場があってね。毎月一回、日曜日にだれもが自分のレコードを持っていって売るようになった。それがLAでは最初のショーだ。キャピトル・タワーでのレコード・ショーもすごい盛り上がりだった。最初は日曜の朝から始まるという約束だったのが、レコード狂の連中がどんどん早くから集まるようになった。最後には土曜の夕方4時から始まってたよ。そこから一晩中レコードを買い続けるんだ。クレイジーだった(笑)」

 

 マイクさんもそこにテーブルを出していたの? そう聞くと、マイクさんは苦笑した。

 

 「テーブルなんてないよ(笑)。あのころのレコード・ショーには入場料もないし、ディーラーが支払うテーブル・チャージもなかったよ。みんな毛布やシートを持っていって、地面に敷いて、レコードを置いたら、それでOK! そのまま夜通し続くんだから、あれは本当に無秩序だったね。今でも信じられないよ」

 

 1960年代半ばまで、中古レコード・ビジネスで主力となっていたのは、まだロックやポップスではなく、ジャズやクラシック、ポピュラー歌手のアルバム、映画音楽やムード音楽などだったという。欧米には“ソング・オブ・アワ・タイムス”という表現が古くからある。「わたしたちの時代の音楽」とは、今流行している曲やサウンドを指すのではなく、かつてある世代が共有したヒット曲やスタイルのことを指す、ノスタルジーとしての言い回しだ。そういうノスタルジックな文化を共有する郷愁や骨董蒐集的な感覚が、中古レコード文化の主流だった。

 

 それが変化しはじめたのが、1960年代の終わり。社会は公民権運動の高まり、人種問題の過熱化、ベトナム戦争への賛否で覆われ、音楽の世界では、ビートルズ解散が噂され、ウッドストックでは巨大フェスが行われ、大きな変動が起きていた。カウンター・カルチャーを体現するロック世代の耳を通じて、1950年代のロックンロールやブルースの再評価が起き、それまで中古レコード市場では無視されてきた作品が、あたらしい価値を持つものとして認識されるようになってきた。おそらく、マイクさんたちのような当時の若いディーラーたちの登場は、曲を作るとか、バンドを始めるとかではなく、レコードの売り買いを通じて音楽の価値創造に参加する方法が生まれたことを意味している。あたらしい世代の中古レコード・ディーラーたちの登場が、レコード・ショー文化をもあたらしくした。忘れ去られていたはずのものがむずむずと現代に動き出し、あたらしい価値を獲得してゆくおもしろさを発見する、音楽の教科書には書かれない最先端がそこにあったと想像するのは難しくない。

 

 「ウェストLAやキャピトルのレコード・ショーがとんでもなく盛り上がると、他にもショーを始める連中が現れた。サンセット・ストリップ、ハリウッド、ホテルの会議場を使ってやるショーも増えてきた。ブートレッグの登場もショーを盛り上げたよ。『グレート・ホワイト・ワンダー(Great White Wonder)』(※ボブ・ディランとザ・バンドが1966年から67年にかけて行ったセッションの流出音源で、世界で最初のブートレッグとされる)が話題になってからは、ブートレッグを売るディーラーがいっぱい出現した。そもそも違法だから、お店では売ることができない。ブートレッグにはひどい音質のライヴ盤も多かったけど、みんなすごく欲しがっていたし、それで荒稼ぎしてるやつらもいっぱいいた。あのころ、アメリカでライヴをやってるバンドだったら、ほとんど全部ブートレッグが出てたんじゃないかな、でも、RIAA(アメリカ・レコード協会)が厳しく目を光らせていていたから、売る側も気をつけていたよ。 もしもRIAAの係官がショーでブートレッグ・ディーラーを発見したら、そのショー自体を中止させてしまうんだ」

 

 レコード・ショー黎明期の話は、聞けば聞くほどおもしろい。ただ、そうした初期の無秩序状態も徐々にオーガナイズされていったらしく、そうなるとビジネスは勢いだけのものではなくなってくる。そのときにマイクさんが自分ならではの売れ筋として用意したレコードって、どういうものだったんだろう?

 

 「最初はシングル盤で、周りのディーラーと差をつけていた。主に50年代のロカビリー、ロックンロール、リズム&ブルースのシングル盤だね。シングル盤を中心に売っていた理由のひとつは、当時はアルバムをたくさん買うほどのお金を持ってなかったからだ。アルバムを1枚買うかわりにいつもシングルを2枚くらい買うようにしてた。それが自然と貯まっていたんだよ。今もおれが一番好きなのは、ロカビリーのシングル盤なんだ。ロカビリーは生っぽく、ラフなところがいい。生涯に1枚か2枚くらいしかシングルを出せなかったようなマイナーなローカル・ロッカーが好きなのも、初期のローリング・ストーンズやヤードバーズが好きなのも、おなじ理由だね。音が洗練されてなくて、ゴツゴツとしているだろ。それがいいんだ」

 

 それに加えて、マイクさんの品揃えで今も目を引くのは、ヨーロッパやカナダなど、アメリカ以外のプログレやクラウトロック、ミステリアスなシンガー・ソングライター、ワールド・ミュージックなどの充実ぶりだ。

 

 「ビートルズがアメリカで人気爆発した60年代、むしろおれがのめりこんだのは、イギリスやヨーロッパでリズム&ブルースをやってるようなバンドだった。当時LAには、いくつか輸入盤を売ってる店があって、そこに行くと、そういうグループのレコードを売っていたんだ。今だったら信じられないくらいのレア盤が、めちゃめちゃ安く売っていた。なぜって、だれもそんな外国のバンドのことなんか知らなかったからね。それ以来、おれは自分が知らないレコードでも、見た感じが興味深く思えたら買うようにした。それがのちに役に立っているというわけ。もうひとつは、『トラウザー・プレス(Trouser Press)』って雑誌(※1974年にニューヨークで創刊されたファンジンで、音楽批評誌として独自の個性を発揮していた)におれのレコードのセール・リストを掲載してもらって、そこで通販を始めたことだ。それがきっかけで、ドイツやオランダやオーストラリア、ニュージーランドのディーラーたちと取引をするようになった。彼らが送ってくれるレコードを見て驚いたよ。たとえばオランダから送られてくるシングル盤には、ぜんぶ写真やイラストのジャケットがついてるんだ!(※アメリカで発売されるシングル・レコードには、一部の商品にしかジャケットがついていない) そういう発見が、おれを海外盤にのめりこませたというわけさ」

 

 

 45年以上、レコードを買い続け、レコード・ショーに毎月立ち続けていて、失われてしまったこと、一番変わったと思うことはなんだろう?

 

 「なくなったものでいえば、ハリウッドにあったアーロンズ・レコード(Aron’s Records)が閉店したことだね。1966年から67年にかけて、LAではロックが花開いて、いろんなレコード会社が盛大にビジネスを展開したんだが、レコード会社の社員はそれほどいい給料をもらっていなかったのさ。だから彼らは会社にあったプロモ盤を大量に持ち出して、街のレコード屋に売って金にした。それを客に売って店を大きくしたのが、アーロンズだ。タワー・レコードがLAにやって来るまで、LAで一番大きな店はアーロンズだった。店に入ると新入荷のレコードが毎日うず高く積まれていたし、値段も99セントから、高くても2、3ドルさ。みんな音楽好きはアーロンズに通ったし、だれよりも早く新入荷を見たいって理由で店の近所に引っ越したやつらだっていた。店で働きながらくすねた在庫で自分の店を開いた悪党だっているからね! だれとは言わないけど(笑)」

 

 2005年にアーロンズは閉店し、サンセット・ストリップにあったタワー・レコードも今はない。代わりにハリウッドを今、牛耳っているのは、サンフランシスコからやって来たアメーバ・ミュージック(Amoeba Music)ということになる。

 

 「アメーバがハリウッドにできたのも大きいが、なにより一番の変化は、インターネットだろうね」

 

 マイクさんはインターネットをやっていない。息子さんが大きいので、ひょっとしたら家には回線はあるんだろうけど、おそらくマイクさんがそれに触れることはない。いつも連絡はショーで直接会うか、自宅に電話するかのどちらかだ。インターネットはマイクさんにとって憎むべきもの?

 

 「そういうわけじゃないよ。おれはレコードに触っていたいだけさ。ジャケットを見たいし、レコードのレーベルやクレジットを間近に目で見て確認もしたい」

 

 たしかに、ショーだけでなく店舗ですら「もし、もっとレアなレコードが見たければ、ウェブサイトでオークションやってます」という張り紙を見せられて閉口したことも何度かある。

 

 「それが最悪なんだよ。インターネットでは本当のことはわからないんだ。あいつらが主張するよりもコンディションが悪く感じたという経験もあるだろう? ネットでばか高いレコードを買って失敗して、金を捨てたような目に遭ってるやつもいっぱいいる」

 

 では、マイクさんは自分の店を持つことは考えないのだろうか?

 

 「ないね。それはやっかいすぎるよ。自分の店を開けたら、毎日そこにいなくちゃならないし、ふらっと旅に出ることもできない。店を持つってことは、おれにとっては刑務所に入るのとおなじことかもしれないね」

 

 「刑務所(jail)」という言葉をマイクさんが選んだことに、ドキッとした。その言葉は、マイクさんが生まれる前、日系人だからという理由によって戦争捕虜として収監されそうな危機を逃れて、ミルウォーキーに逃れたご両親の話と重なるようにも思えた。移民として祖父母や両親がアメリカで体験してきた苦労やしがらみからも、有色人種であるという出自からも、できるかぎり自由でいたい。自分の城を持たず、レコードの売り買いであちこちを渡り歩く仕事をマイクさんが選んだのは、自身にとっての必然だったのかもしれない。

 

 「籠の鳥になるなんざ、まっぴらさ」

 

 マイクさんの、そんなべらんめえなタンカが聞こえた気がした。江戸っ子じゃなくLAっ子なんだけどね。

 

マイクさんの家のレコード・ガレージ

 マイクさんの家のレコード・ガレージ

 

 

 今もマイクさんは週末になると各地に出かけては、レコード・ショーにテーブルを出す。自宅のガレージでレコードを積み下ろししていると、近所から「うちのレコードを見にこないか」と声がかかって、思わぬ収穫に出くわすこともある。知り合いのディーラーと離れた街までコレクションの放出を買いに行くこともある。電話をかけると、外にレコードを探しに行っていて不在なこともあり、そういうときは奥さんが「あとでマイクに伝えておくわ」と言ってくれる。

 

 あれ? そういえばマイクさん、70歳で引退するって言ってなかったっけ?

 

 「引退? おれはもうとっくに引退してるのさ。レコードを売るのは、おれの仕事じゃなくて趣味だからね。それに、売るべきレコードがおれの手元に集まりすぎてしまってるから、これをなんとかしなくちゃいけない。これを全部まとめて今すぐだれかが買ってくれるんなら話は別だけど、そんなやつを探す手間をかけるより、レコードを探しに行くほうが好きなんだよ。こればっかりはしょうがない。来年もニューヨークにもテキサスにも行くよ。いいレコードを発見するのがまだまだ好きなんだ」

 

 その言葉通り、今年(2016年)もニューヨークのショーにマイクさんはいた。今回はテーブルは出さず、買い専門だそう。テーブルでピザを食べながら、しばし一緒に休憩した。

 

 「収穫はあった?」

 

 「YA! おまえは、調子はどうだ? おれはこれを買ったよ。1960年代のハワイで作られたサーフ・ギター・バンドのアルバムだ。見たことあるか? これはめちゃめちゃ珍しいぞ」

 

 子供みたいにうれしそうにマイクさんは収穫のレコードを見せてくれた。

 

 「じゃ、がんばれよ」

 

 紙ナプキンで口元をぬぐい、コーラをぐいっと飲み干すと、マイクさんは席を立った。

 

 「そうそう、あなたのこと記事に書いてるんだよ」

 

 そう呼びかけたら、マイクさんは、「よせやい」とでも言うように、ちょっとはにかんで笑った。そして、すぐにすたすたと歩き出し、レコードを探しに人混みのなかに紛れていった。

 

ニューヨークのレコード・ショー

マイクさんはショーの人混みに消えていった

 

 

(第3回完)

 

 

※「第3回 マイク・サイトー(その1)」はこちら

 

 

 

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