文月
icon 2013.4.6

文月悠光インタビュー◆4/6~4/19「あるいは佐々木ユキ」上映の前に

浸透する詩人、浸透する言葉

 

 文月悠光は浸透してゆく詩人だ。

 彼女の言葉は鋭く、色鮮やかで、時に現実の欺瞞を告発する。その言葉たちは、様々な形をとって今、ジャンルを超えて私たちの元に届けられようとしている。

 彼女の言葉は、様々なジャンルの表現者たちと出会うことで乱反射し、作者自身ですら予想のつかない形で読者の元に届くことがある。そして文月自身もそのように自分の言葉が広がっていくことを強く願っている。そのように、世界に浸透していく言葉を、文月は作り続けている。

 4月からアップリンクで再び上映される福間健二監督の『あるいは佐々木ユキ』は、そんな文月が積極的に取り組む多様な詩のアウトプットのうちの一つである。同じく詩人である福間健二による「都市のおとぎ話」に、文月悠光は本人役で登場し、自らの詩を朗読している。撮影当時、主人公の佐々木ユキとほぼ同年齢の19歳だった文月は、あるときは佐々木ユキの分身のような存在として、またあるときは佐々木ユキの脳内に木霊する言葉を紡ぐ妖精のように、不思議な存在感を見せている。そして彼女の詩もまた、福間健二というもう一人の詩人のカメラを通過することで、思ってもみないような効果を上げている。文月悠光の存在、言葉が様々な位相で浸透した映画が、この『あるいは佐々木ユキ』である。

 北海道で過ごした中学時代から積極的に朗読に取り組んできた彼女は、今や朗読に最も積極的に取り組んでいる詩人の一人となっている。近年「サイファー」や「言葉のポトラック」「読書のフェス」など、様々な朗読イベントが開催され、朗読の価値が見直されている現在の状況について、そして間もなく刊行される待望の第二詩集についても話をうかがった。(取材・文/山本拓、写真/福アニー)

 

 

二人の詩人の出会い

 

――監督の福間健二さんのワークショップに参加されていたそうですが、どのような交流があって今回の出演に至ったのでしょうか?

 

文月:中原中也賞を取った2010年の秋に、福間さんの国立市のワークショップにゲストで参加しました。打ち上げで、私が元演劇部だという話や、学生生活のことなどを話しました。福間さんはそのときに、私を使えるかもと思ったのかもしれないですね。

 

――映画の冒頭では、いきなり何の前触れも無く文月さんのインタビューシーンが始まります。最初に『あるいは佐々木ユキ』を観られたときには、自分がそういう形で出演していることは意外ではありませんでしたか?

 

文月:実は撮影に関わっていたのはたった一日だけでした。それから試写会の告知がくるまで、まったく映画に関して何の話も聴いていなくて、撮影にも関わっていなかったので、正直どういう作品に仕上がっているのかなっていうのは気になってはいました。撮影から一年半くらい経ってしまっていたので、試写会のときは、撮影当時19歳だった自分と、映画の中で再会したという感じでした。

 

――映画の中盤にも文月さんのインタビューシーンが挿入されています。そこで文月さんは自身が好きなおとぎ話である『人魚姫』の話をされているんですが、文月さんの役どころが、現実での詩人文月悠光なのか、映画の役としての文月悠光なのかが非常に曖昧というか、どちらともとれる映画ですね。

 

文月:脚本が半分くらいできかけの時期のときに、福間監督からメールで「好きなおとぎ話は何ですか?」とか「妖精になれるとしたら何の妖精になりたいですか?」という質問が送られてきました。そのときに「好きなおとぎ話は人魚姫で、水の精になりたい」と答えたのを覚えています。その後脚本が来たときに、私の回答がばっちり反映されていたので、そういうことだったのかと思いました。脚本があらかじめ決まっていたシーンもあったんですが、いくつかのモチーフは自分の中から出てきたものなので、私の中でも役柄なのか、自分自身なのかというのは曖昧ですね。

 

公園での朗読

 

――映画には、冬の枯れ葉の中の公園で詩を朗読する女性として、文月さんが出演されていて、文月さんの詩が映画全体に影響を与えています。ご自身が、中学時代に公園で朗読を行っていたというエピソードと重なりますね。そういったことは意識なさいましたか?

 

文月:私は中学時代、どこに自分の詩を発表していいのかわからず、何度か公園で朗読をしたことがあります。私の中では公園で朗読するっていうのは、イコール中学時代と繋がっていることなので、自分が過去取り組んでいたことにもう一度帰ったような気がしました。当時はよくこういうことをやっていたなと思いますね。ただ、気恥ずかしさとか戸惑いよりも、その頃は自分の作品をどうしたら聴いてもらえるだろうという気持ちの方が強かった。今よりもがむしゃらでしたね。

 

――文月さんが公園で朗読しているシーンは、群衆みたいにたくさん人がいるわけでもなく、言葉が数人の顔の見える聴衆に届くということがダイレクトに伝わってくるシーンだったと思います。

 

文月:あの公園の朗読のシーンで、福間さんも私も気に入っている部分があります。背景にある壁に偶然絵が描いてあって、舞台装置的な役割で画面が華やいで、そのおかげで日常感が生まれました。あまり何にも無いところで朗読していると、詩が非日常感を出し過ぎてしまってよくないと思うので、だからあの公園で撮影をしてよかったなと思いました。

 

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もう一人の佐々木ユキ

 

――福間健二監督は、トークイベントでのインタビューで、文月さんは佐々木ユキの分身と言っています。また文月さんにインスパイアされてこの映画を作った部分も多く、確かに主人公の佐々木ユキは色々な点で文月さんと共通点があるのかなと思いました。文月さんから見る佐々木ユキはどんな子でしょうか?

 

文月:不器用な感じですね。不器用で隙のある感じが愛らしい。同世代の友達と大学とかで接しても、佐々木ユキみたいに自分探しを一生懸命しているような、「ザ・青少年」みたいな人っていないと思うんですよ。そういう意味では「あ、いるいるこんな子」っていう感じの共感ではない。でも誰もが心の奥に佐々木ユキみたいな、迷子になりかけている女の子を持っていて、その自分の中にある隠れた佐々木ユキが私の代わりに何かを探り当てようとがんばっている。そんな姿を見ていて心強くなりました。

 ユキのシーンで、私がすごく好きなシーンがあって、ユキが明太子と味噌汁とご飯を食べるときに、箸を落としちゃって、ご飯粒が一粒だけついているのを拾って食べるじゃないですか。あの食べ方とか、箸の持ち方が、はっきり言ってあまり上手じゃない(笑)。あれは役者さんのほとんど素の状態なのかもしれないですけど、あの自然で不器用な感じがすごく好きです。

 それと、ユキの目が強くて印象的です。視線がぶれない。カメラを意識して見ているのもあるんでしょうけど、こっちが思わず目を逸らしたくなるようなまっすぐな強さを持った目です。

 

曖昧な私、あるいは佐々木ユキ

 

――文月さんは劇中で特に誰であるかは明示されず、それでも本人役で出演している。曖昧なまま、虚構の中に現実が浸透していく感じがします。

 

文月:その一方で、佐々木ユキ自身は映画の中で何度も「わたしは佐々木ユキ」とカメラの前で名乗ります。ユキの、乖離している感じというか、現実から浮いているような感じが立ってくる。詩とか人物とか色々なものが曖昧な中で、あの人が佐々木ユキであるということだけが、何度もはっきりと出てくる。映画のタイトルの『あるいは佐々木ユキ』とは、たったひとりの佐々木ユキということじゃなくて、誰かの名前があって、でもあるいは佐々木ユキでもあるっていうことなのかなと思います。同い年くらいの女の子が何人かこの作品は出てきます。その誰がユキであってもおかしくない。

 なぜ二十歳くらいの女の子を、福間監督が撮るのかと気になっていました。訊いてみたら、「二十歳の人たちよりは、自分はもう年上になってしまったけれど、自分の中にはいつも少年の心があって、二十歳くらいの女性をお姉さんを見るような目で慕うようなところがある。だからそういう人たちを撮りたい。」とおっしゃっていて、それは女性である自分にはない気持ちなので、とても印象的でした。

 

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詩と地続きの日常

 

――この映画にはヴォイスオーヴァーがとても多く、「語り」が前面に出ています。それによって言葉と現実世界の境界線が曖昧になっているように感じます。そういう部分でも、テクストが幾重にも重なっている印象を受けます。

 

文月:不思議なところでテクストが挿入されたりしますね。印象的だったのが、画面に夕日が映っていて、激しいピアノの音が流れ、福間さん自身の朗読が入るところです。あのシーンはすごく好きなのですが、映画内の人物としては果たして誰が読んでいることになっているのだろうか(笑)。誰が受け止めた言葉かは明示されない。でもそれが、緩く映画全体に作用していく力を持っていて、詩の言葉が浸透していく感じがありました。紙の上で読む詩よりも鮮やかになっていく。詩と日常が地続きであることを、この映画を通して体感できる感じがします。