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万田邦敏(映画監督)×伊藤理恵(脚本家)クロスコラム◆「イヌ」の女と「飼い主」の男の異形の関係を描く『イヌミチ』公開によせて(前編)

万田邦敏(映画監督)

 

『イヌミチ』というのは変身の物語だったんですね。今さらなんですけど。脚本を読んだときも、撮影の準備をしているときも、撮影中も、仕上げ中も、「変身」という言葉は思い付きませんでした。思い付いていたら、何かがどうかなったかというと、別にどうにもならないんですけどね。つまり今『イヌミチ』を「変身」という言葉で考えるのは、『イヌミチ』を作ることとは全然別の次元の話で、確かにわたしは、もう『イヌミチ』製作の渦中にはいないのですから、それは当たり前の話です。じゃあ、製作中は何を考えていたか。それは忘れました。

 

「変身」といえばカフカですよね。ある朝、何か気がかりな夢から目覚めたザムザ氏が人間大のゴキブリみたいな虫になっちゃってる、という話。映画の方では、クロネンバーグが長い期間にわたって取り憑かれたように変身する主人公を描き続けましたよね。『ラビッド』『ビデオドローム』『ザ・フライ』、どれもステキな変身映画です。増村も『刺青』『盲獣』で虫に変身する女性を描いてる。でもカフカにしてもクロネンバーグにしても増村にしても、主人公たちは変身したくて変身するわけではなくて、自分の意志とは関係なく変身しちゃう。あるいは変身させられちゃう。虫になったザムザ氏は人間の言葉を喋りたいのに喋れない。ハエ男になり始めたブランドル氏は、落ちていく耳や抜けていく歯を瓶に収集して、「ブランドル記念品」と自虐的に言ってみせる。日々人間界から追放されていく彼らにとって、変身することはそれまでの日常のすべて失うことを意味している。変身というのは、そういう過酷な経験なのである。彼らは変身することに恐怖と不安を抱き、変身する我が身に戸惑っている。

 

そこらへんが『イヌミチ』で犬になった響子と大きく違うんじゃいかと思うんです。響子は自ら「犬でいいや。その方が楽だから」と思って「ワン!」と吠える。だから「ワン!」と吠えたのは犬でなくて、響子なんですよね。響子の「ワン!」は犬の声ではなく、人間の声です。擬声語です。つまり「犬1日目」のあの朝、響子はまだ犬になっていないんです。2日目の朝食を犬食いしたあたりから、徐々に犬っぽくなるんですけど、でもやっぱり「私は犬、私は犬」って自分に言い聞かせてるんです。なりたくて犬になってるんです。犬のふりをしているだけなんです。自分が望まないままにますます女郎蜘蛛になっていく若尾文子や、どんどん虫になっていく緑魔子とは違うんです。だから、響子が犬になることは過酷な体験ではない。孤独に落ちていくことではない。犬のふりをしている限り、響子は孤独じゃない。それは変身とはいえない。製作期間を通じて「変身」という言葉を思いつかなかったのは、そのためなんじゃないでしょうか。

 

でも『イヌミチ』は、やっぱり変身の物語なんです。何が変身かというと、響子の変身は、じつは犬のふりをやめてから始まるんです。流産、恋人との別れ、辞職、と響子の身辺は一気に変化し、響子に過酷で孤独な体験を強いることになる。そのとき、響子は自分でも気づかぬまま、飼い主のいない野良犬に変身し始めているんです。ほんとうの犬の道は、これから始まるんだと思います。

 

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