伊藤理恵(脚本家)
『イヌミチ』を書き始めたのは確か2012年の夏だったので、そろそろ二年近くが経とうとしています。
初稿を書いている間も、その後映像化が決まってシナリオの直しをしている間はもちろん、最終稿が書き上がってからも、映画が出来上がってからも、公開を目前に控えた今も、ずーーっとこの物語のことが頭の中にありました。
もうお腹いっぱいです。
そろそろ『イヌミチ』という物語を手放したいなと思う今日このごろです。
そういえばこの話も、「手放す」話でした。
「自分探し」ではなく「自分失くし」、あるいは「断捨離」、そういう類の。
響子が自分の意思で手放せたものと手放せなかったものがあり、自分の意思とは違うところで失ってしまったものがあり、そして失くしたことでこの先ずっと抱え続けなければいけない痛みもあり、それは小さいものではないかもしれませんが、あのあと響子も(おそらく西森も)新しい何かを見つけるのだと思います。仮にそれが他の人には理解しがたいものであったとしても、響子にとっての幸福の形を見つけてほしいと思います。
先に『イヌミチ』という物語をそろそろ手放したいと書きましたが、それは忘れたいということではもちろんなく、別の新しい物語に向かいたい、という意味です。公開が終われば、この映画のエンディングのように私の中にも「終」の赤い文字がどーんと出て、清々しい気持ちで次へ向かえるように思います。
と同時に、(この先どれだけ自分が脚本というものに関われるかわかりませんが)どこまで行っても、自分にとって物語を作るということの礎はデビュー作でもあるこの映画に携わる中で感じ、考えたことにあるのだろうなという気もしています。