ishihara
icon 2014.12.27

グルメ石原のグルメ漫遊記 黎明編 第3回「ゴーヤしかない沖縄料理屋」――修羅の漢・石原正晴(SuiseiNoboAz)による哀愁グルメ連載!

グルメ石原のグルメ漫遊記 黎明編 第3回

「ゴーヤしかない沖縄料理屋」

石原正晴

 

子供の頃、母親から「あそこには行ってはダメよ」と言われている場所があった。大体どこの街にもそういった裏ぶれた一角があるようで、そういった場所ではYANKEEたちがシンナーを嗜んでいたり、酔っぱらいや定住ノマドのおっさんが喧嘩をしたり春を買ったりしていて無慈悲な暴力のパワーがとぐろを巻いて渦巻いており凄く危険。そしてそこに足を踏み入れた子供は一人残らずエロとかグロとか寺山修司とかが好きになって長い目で見ても将来的にやっぱり凄く危険。ダメ、絶対。と言われているのだった。

 

池田社長にもそういった場所があって、それは北区王子の飛鳥山のふもとにある暗い路地だった。

 

18歳くらいのときに自分は池田社長とライブハウスで出会った。池田社長は「社長」と呼ばれていたが別に会社の経営者でもなんでもなく、単に少し偉そうなだけの偏屈でお人好しのバンドマンで、なぜか自分と妙に気が合うところがあって20代の真ん中くらいまで自分と池田社長は東京のあちこちで酒を飲んだり、ライブをしたり、酒を飲みながらライブをしたりした。

 

あまり記憶が定かではないけれど、あるとき池田社長から「子供の頃に、親から絶対に行くなと言われていた場所がある」とその路地の話を聞き、行ってみようぜ、ということになった。なんだか子供っぽい話だけれど、我々はふたりとも若い大学生らしくアウトローに憧れを抱いており、浮浪者とかトム・ウェイツとかを偏愛しており、手塚治虫の火の鳥で一番好きなのは『鳳凰編』だった。それになぜだか「王子の路地裏」という言葉の響きは新宿、とか渋谷、とかよりなんだかもっと無慈悲で洒落にならない何かを感じさせた。王子こそが日本で一番危険でロマンチックな場所のように思えた。

 

王子の駅を降りて飛鳥山の方に歩いて行くと、例の路地が見えた。路地は確かに薄暗くタダモノデナイ感じで、奥の方から黒っぽい闇を吐き出しているようだった。自分と社長はぐっと覚悟を決めてその闇っぽい黒のなかに入って行った。入ってみると別にどうってことはないただの路地で、危ないおっさんもYANKEEもおらず、ていうか人っ子ひとりおらず、ぺんぺん草が生えているようななんにもないただの脇道だった。なんだかなんにもないね、と言いながら奥へ歩いて行くと、道の片側に何軒かいかにもヤバそうな飲み屋が現れた。そのうちの一軒が沖縄料理屋のようで、自分と社長はその店に入ってみることにした。

 

gourmetishihara3

 

店は狭くて細長く、片側にカウンターがあってその奥は4人くらいがやっと座れるくらいの小上がりの座敷、といったエロい造りになっていた。小上がりになった座敷ではワケありっぽいアヤしい感じの妙齢の男女がエロい感じで無言で一杯やっていた。カウンターの中にはおばちゃんがいて、自分と社長は少しそわそわしながら「とりあえず生」と言った。おばちゃんはぶっきらぼうな調子で「そんなもんないよ」と言った。自分と社長は「え」と言って出されたお品書きを見るとそこにはたった2行「泡盛、ゴーヤ」と書いてあった。

 

飲みながらおばちゃんと話していると、おばちゃんはとても優しいおばちゃんだということがわかった。「ゴーヤだけじゃつらいでしょ」と島らっきょうも出してくれた。小上がりで飲んでいた男女はワケありでもなんでもなく、近所に住んでいる夫婦だった。王子の路地は何もヤバくもエロくもなかったが、横目で社長の表情を伺うと社長は非常にエロい表情でにやにや笑いを浮かべていた。自分と社長は泡盛とゴーヤで無慈悲なまでにべろべろになって、一緒に「浅草キッド」を歌いながら帰った。

 

なぜだか先日、突然その路地のことを思い出して行ってみることにした。都電荒川線に揺られて王子に着いたが、路地の場所が見つけられなかった。

 

boazkun

 

※第2回「御苑名物オムライス」はこちら

※第4回「終末 財津一郎」はこちら

 

 

 

●Profile

石原正晴

1983年3月3日に三重県四日市市に生まれ、13歳から神奈川県横浜市で青春時代を過ごす。ロックバンド・SuiseiNoboAz(スイセイノボアズ)のギタリスト兼ボーカリスト。現在は東京都新宿区近辺で生活している。