icon 2013.4.6

木村文洋×山戸結希対談◆4/20「愛のゆくえ(仮)×あの娘が海辺で踊ってる(完全版)」上映の前に

 

――木村監督は、『愛のゆくえ(仮)』を「部屋の映画」だと仰ってらしたんですけど、『あの娘が海辺で踊ってる』もロケーション主体で撮影されていながら、ある意味で「部屋の映画」なのかなっていう印象があったのですが……。主人公の舞子の部屋の場面のあり方ですとか。あと、菅原との対話場面のフレーミングなんかも……。まったくの勘違いかもしれないですけど。

 

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山戸:舞子の部屋のシーンは言及される方が凄く多くて、その点では後河さんのおっしゃる通り、「部屋の映画」なんですかね。自分にとっては、『あの娘が海辺で踊ってる』もそうだし、今撮っているものもあまり部屋に欲望が湧かなくて。きっとそのほうが一般的じゃないですか?部屋より外を撮りたくなりませんか。

 

木村:いやでもね、外や土地を撮るのは難しい。

 

山戸:木村監督は私を無欲と称して下さいましたが、私にとって『愛のゆくえ(仮)』は、かなりの長い時間カメラが部屋から出ないという撮影が、それこそ無欲に見えました。もちろん、もともとの演劇のシナリオあってのことだと思うんですけど、そういう外部的な要因だけではなく、映画の中の世界で、長い時間あの部屋にいるっていうことがちゃんと必然的に見えるんです。無欲というのか…物語に対して、禁欲的にすら見えました。そしてその姿勢が映画のモチーフとある種の呼応を見せますよね。それがこの映画の代替不可能な部分だとも感じます。

 

木村:28歳のときに、前作の『へばの』という映画で青森県の六ヶ所村を撮ったんですけど、それが初めて積極的にロケーション撮影に取り組んだ作品でした。そのときに、自分の生まれた場所に近いところで撮ったにも関わらず、日本の地方を撮るのって凄く難しいなあと思って。登場人物たちが、重要な何かを交わすのがどこであるのか―。それをまあ、風景も撮るんですが、いま人物が住んでいる部屋で話し行う、ということに何か重きというか―自分のリアリティを確保していくんですね。でも、山戸さんは熱海をああいうふうに撮れてしまう。東京と微妙に距離感のある観光地に生まれてしまって、都会に憧れる女子高生の本音の部分を撮れてしまうっていうのが……。熱海の風景と、熱海にある学校や部屋とを確かに―後河さんが仰るように自在に出入り行き来しながら、壮大に映画を成立していると思いました。しかも、山戸さん熱海出身じゃないじゃないですか(笑)。名古屋でしたっけ?

 

山戸:熱海じゃないですって言うと皆さん笑います(笑)。名古屋の近くの田舎です。

 

木村:熱海は何度か通っているうちに撮影地に選んだという感じですか?

 

山戸:撮影前の春、一度旅行に行って、あっここ映画になるなぁ、と思いました。なんだか土地が容器っぽくて、色々な要素を詰め込める場所だなと感じて。あと、単純に景色が綺麗でした、熱海の。

 

木村:そういうのも驚きましたね。例えば小谷忠典さんは大阪出身だから大正区のことを凄くよく知っていて、映画に写す上で―完全にテリトリーなんだと思います。富田克也さんはやっぱり甲府という出生地に何が外界から入ってきたかをつぶさに観ているし、それを映画にしている。でも、山戸さんはちょっと違う。故郷から離れたところでああいうものが撮れてしまったという……まあ不思議ですね。

 

 

――作品の波及の仕方も、劇的だったという印象があります。

 

木村:お客さんに若い人が多いんですよね。大学生の人とか。大学生が映画を見に来るって、10年ぐらい前ならミニシアターがパンパンになっていたこともあったんですけど。『愛のゆくえ(仮)』の客層は、中高年の方が中心でした。もちろんそれも凄い嬉しいです、ただ若い人にもやはり観て欲しい。

 

山戸:客層が違いますからね。

 

木村:それもあるんですけど、ああいうことが何年か一度に起こるんですよね。若い人が、大挙して映画館に押し寄せる瞬間っていうのが。例えば、松江哲明監督は徐々に徐々に…映画観客以外の若い人にも広く支持されていって、『童貞。をプロデュース』で大爆発した。富田克也監督も、『国道20号線』を公開が終わってからも定期上映され、『サウダーヂ』で本当にたくさんの客層に迎えられる。普通なら、徐々に徐々に火をつけていくものなんですけど、山戸さんは最初からそれができたという……。でも違うか、できた…じゃないか、ただ山戸さんがやった、ということの方が正解なんでしょうね。